Read Da Hip-Hop
1・・・Introduction
◇ 16歳のときの自分
私は、16歳のときにこの論述の大テーマである「HIPHOP」というものに出逢った。それまでは日本に生まれ、日本で育ち、中学高校と流れるままに進学し、いわば「普通」に育ってきた。普通、私はこの言葉がとても嫌いだった。なぜかはわからない、しかし、どこか心の奥底で「自分は普通じゃない、特別なんだ」と思っていたように思う。おかしい話ではあるが、いろんなものに興味を持っていたのは確かで、しかしその純粋な興味は大切にせずに、今思えば「自分を特別に見せてくれそうな何か」に食いついては現実との差に空虚感を抱いていたような気がする。16歳のときに、友人に借りた洋楽のCDを聞いていたときに(つまり、洋楽のCDも「特別なかっこいい」ものだったのだろう)、脳の隋からしびれるような感覚を覚えた。曲の名は「The Real Slim Shady ; Eminem」。ただひたすらに曲が頭にこびりついてはなれず、ついには「こんなふうにかっこよく音を繰り出せたらどんなに素敵だろうか」と考えた。まず英語を覚えよう、そして、このラップを覚えよう、かっこよくなろう。ただ、かっこよく。こんな単純かつ不純ととられても仕方ないような動機で、私はこのHIPHOPにのめり込んだ。しかし、その瞬間に走った今でも覚えているほどの衝撃は、これまでの「うわべ」だけを追い求めるかっこよさとは違ったが、それにはもっと後に気づくことになった。
2・・・Basic Idea Of HipHop
◇ What is “HIPHOP” about?
HIPHOP、と一言にいうがそれはつまり何を指すのか?巷で言われるHIPHOPとは、音楽のいちジャンルであったりファッションのカテゴリーであったりするはずだ。事実以前は私もそうとらえていた。しかしHIPHOPとは本来、体系的な文化の形の一つである。それには短いながら濃厚な歴史と情熱が込められている。
ルーツをジャマイカからのレゲェやアフリカの民族音楽、はたまたR&B(リズム&ブルース)やジャズに持ち、1970年代のアメリカはニューヨークで一応の形が形成された。そのころのアメリカは完全に白人優位社会であり、社会格差や人種差別などが現在の何倍もひどかった。黒人や、移民、白人でも社会的地位が極端に低い人たちは「プロジェクト」と呼ばれる低所得者層向けの集合住宅(今で言う団地みたいなところ)に住んでいた。もちろん娯楽は少なく、人々は繰り返されるぎりぎりの生活を毎日強いられていたのだ。
唯一、といっていいほど貴重な娯楽が公共の公園や広場などで時々開かれる「ブロックパーティ」と呼ばれる小さな集まりだった。彼らは音楽や酒などを持ち寄って、日々の暮らしから少しだけ解放され、仲間たちとのひと時を楽しんだ。ここで流されていた音楽は、当時ジャマイカから流れてきていたDJ(ディスクジョッキー)らのレゲェや、人気だったジャズなどの音源だった。
あるとき「クール・ハーク」というDJが、曲のサビ部分といえる“ブレイク”と呼ばれる部分に人々が大きく反応し、盛り上がることに気づいた。そこで彼は、ターンテーブルを二台持ち込んで、そのブレイクの部分だけを延々流し続ける、という手法「ブレイクビーツ」を編み出した。これが、HIPHOPの最重要要素であるHIPHOPミュージックの原点が誕生した瞬間だった。この新しい音に後にダンサーらが独自のダンスを加え、MC(マスターオブセレモニー/マイクコントローラー)らが自分たちの言葉を音に乗せることで、初期のHIPHOPの形が完成したのである。
◇ HIPHOPとRAPの違い
「HIPHOP」ときくと、「ヨゥヨゥ」とお経みたいに言葉を繰り出している音楽、とイメージする人がとても多いが、前項のように歴史を見てもらうとそうではないことがわかる。ではラップとはなんなのか?そして何がどうなればHIPHOPなのか?
1970年代にようやくある程度の形として成り立ったHIPHOPであるが、新参の音楽体系にとってはその後も絶えず変革の日々だった。変革を繰り返すうちに、HIPHOPを語る上でなくてはならない要素というものが整理されだした。
簡潔に述べてHIPHOPとは以下の四要素がそろったときの文化の体系のことをいう。
DJ ・・・ ターンテーブルやレコードを駆使し聴衆に音楽を提供するもの。スクラッチ
などいろいろな技がある。
MC ・・・ マイクを持ち、DJの隣で聴衆をあおったり、コントロールしたりする。
後に自分の考えや感情をDJの流す音に乗せ、韻を踏みしゃべるような流れるような
曲を提供するようになる。
B-BOY・・・Break−Boysの略(ブレイクビーツでダンスするものたち、から)。
HIPHOPの音に乗せダンスをするもの。近年ではたくさんのジャンルに
細分化され、HIPHOPを彩る。
Graffiti・・・グラフィティアートのこと、独特の書き文字やテイストでHIPHOPの
一端を担う。
ここで出てくる「グラフィティアート」とは、ほかの三つの要素が十分に充実し、多くの人に認知された後にHIPHOPのアーティストらによって取り入れられた。
これらは、同じくアメリカを中心とし広まった文化で、こちらも低所得者層の人々が、自分たちの存在を街のいたるところに記してまわる「タギング」というがもとになっている。辞書を引いてもわかるとおり、Graffitiは「落書き」を意味し、つまりもともとは違法行為であるが、その独創性や芸術性がやがて評価を受けることとなり、後にHIPHOPのアーティストらのレコードジャケットやファッションになくてはならないものとなった。
前述の通り、いろいろな要素が集まってHIPHOPと呼ばれるのであって、決してその全貌はいち音楽のジャンルには収まらないのである。よく誤解されるこのRAPとHIPHOPの意味であるが、実際にRAPという要素がHIPHOPを世界規模にまで広めた大きな原動力の主体になったのは確かである。
RAP、と辞書で引くと「おしゃべりする、またはおしゃべりをするように歌う」と言う風に書かれている。つまりもともとは音楽の種類をさす言葉ではないのだ。もとはマスターオブセレモニー、つまりパーティの司会がマイクによって客を誘導したりDJなど出演陣の紹介をしたり盛り上がりに際して聴衆をあおったりしたことがRAPの元になっている。こういったことをしている間に、MCは徐々に自分の考えや社会に対しての不満、怒りなどをMC業の合間にはさむようになり、それが徐々に変形していき「いかに自分の考えをうまく音のせるか」という方向へ向かった。その際、これまたRAPの特徴として「韻を踏む」という行為が技巧のひとつとして取り入れられていった。さらに変革が進み、音に乗せて流れるように韻を踏みながらみなが盛り上がる曲を提供する音楽、これがRAPとして認知されていくようになった。
ちなみに、「HIPHOP」という名前は、アフリカ・バンバーダというこちらもHIPHOP創設に大きく貢献したDJが、黒人の創造性文化を総称してそう名付けた。(会場が盛り上がるときに客がジャンプし聴衆のHIP(お尻)がHOP(飛び上がる)というところから名づけた、など語源に関しては諸説ある)
つまり、RAPとHIPHOPの違いとは、RAPはHIPHOPという文化体系に組み込まれている要素のひとつであり、ほかの要素とあわせて大きな枠組みであるHIPHOPという形を成立させているということである。もちろん、HIPHOPは音楽なしには語れないので、RAPを含む要素を含めて世界に広まっていったということを頭に留めておきたい。HIPHOPとは、これらの要素を含んだ文化、もしくは「生き方」といってもいいだろう。そこから生まれる音楽がHIPHOPミュージックとなるのである。
3・・・Now Read Da HIPHOP
◇ Eminem「Cleaning Out My Closet」を読む
30年余り時は流れ、発祥地のニューヨークから世界へこのHIPHOPは広がった。音楽業界にも大きな衝撃であったし、その人気から、業界では一大マーケットを築いた。世界を一気に席巻した人気の理由には、ほかの音楽とは違う「リアル」の考え方があると考えられる。ここでいうリアルとは「本物、物事を包み隠さない、ありのままを見せる」ということで、脚色されたラブストーリーや大衆受けするように配分されたチアフルソングを歌うのではなく、自分たちの置かれている状況や環境に対する不満、いかに自分たちが今を生き抜いているか、ということをきれいな言葉で飾り立てるのではなくむしろ自分たち自身の言葉でみなの耳に届けたのだ。時に強い語気で歌われる曲の数々は、その気持ちをまさに「リアル」に反映し、聴衆・リスナーの心をつかんだと考えられる。ちなみに、逆に「自分はリアルである」と誇大誇張したり、見かけだけのヒップホッパーは「Fake」や「Looks Off」(共に偽物、見掛け倒し、という意味)激しい非難や罵倒の対象となった。
ではここでその「リアル」にあふれた曲に実際に触れてみたいと思う。(資料1、Eminemの部分を参照)ここで紹介するラッパーは、Introductionですこし触れた、Eminemという人物である。彼は、皮肉を多分に含みつつも独自のユーモアと天才的な作詞のセンス、そして人種の枠を超えたRAPの技巧に対し高い評価を受け、まさに「HIPHOP AMERICAN DREAM」を体現した人物である。
HIPHOP、といえばまず黒人を思い浮かべる人が多い。もちろん、What Is “HIPHOP”About? の項で紹介した、創始者クール・ハークもジャマイカ出身の黒人であるし、現在メインストリームで活躍しているほとんどのラッパーは黒人である。その中でこのEminemというラッパーは典型的な白人。彼の出身はアメリカ中部のデトロイトという街で、白人を逆差別するという現象がおきるほどの現在でも特に人種差別の激しい地域のひとつである。彼は幼少のころからこの地域でもさらに極貧で治安の極めて悪い地域に育った。
何がよいHIPHOPミュージックを生み出すか、という問いに「STRUGGLE(葛藤・苦闘)」や「COMPLEX(コンプレックス・強迫観念)」という答えがよく返される。それは、それらを通しての苦悩を曲に乗せて吐き出すことが、真に「リアル」を証明するものだからだ。加えてそれをいかに証明するかが自分の感情や実情を音と言葉に込めて歌われてきたRAPがもつ最大の魅力のひとつでもある。極限の状況に追い込まれるほど感情がもまれ、言葉のひとつひとつに意味と魂が宿る。だからこそ人はその曲に共感し、「リアル」を感じるのだ。
彼の人生は、そんなStruggleとComplexの塊だった。そしてそれは、彼が全米で数ある音楽の賞を総なめにしてトップアーティストの仲間入りを果たした今も変わらない。
以下は曲の解説および考察である。
「Cleaning Out My Closet(おかたづけ)」(資料1・2のCleaning Out My Closet参照)
―Verse1(Verseとは詩文・曲の本論部分のことをいう)―
曲はHave you ever been hated or discriminated against? I have(差別されたり、毛嫌いされたりしたことがあるか?・・・オレはある。)という自問自答からはじまっている。全ての自分が抱いてきたストレス対しての感情の爆発を表現し、See they can trigger me, but they'll never figure me out(彼らは自分を挑発することはできても、理解することなんて到底出来ないんだ)など、理解されない自分へのコンプレックスをあらわにしている。Verse1の最後では母親に対し、I'ma make you look so ridiculous now!(これからあんたがもっとばかばかしく見えるようにしてやるよ!)と母親に対しての宣戦布告ともとれる一言で締めくくっている。
―Verse2―
I got some skeletons in my closet and I don't know if no one knows it. So before they thrown me inside my coffin and close it I'ma expose it.(誰か知ってるかどうかは知らないが、オレのクローゼットの中には「骸骨」がしまってあるんだ。だから、オレが墓に入れられてしまう前にこれを今衆目にさらすことにするよ)という語り口でVerse2は始まる。骸骨、と聞いて思い浮かべるのはやはり暗い、思い、死や恐怖などの不の感情である。そういった感情をクローゼット(唯一の自分の場所であり、彼が母親から虐待を受けた際に逃げ込む場所。つまり、自分の心の中の一番深くて暗くて殻に閉じこもる部分)からさらけ出す、つまりはCleaning Out My Closet(おかたづけをする)につながるというふうにとらえることができる。そこから自分が子供ころの記憶に回帰し、ストーリーは続く。I wonder if he even kissed me goodbye(オレは親父がさよならのキスをしてくれたのかさえ知らない)と母親と彼自身を置いて出て行った父親のことにも触れているが(Eminemは自分の父親のことをあまり覚えていない)、次の一節ではI just fuckin wished he would die(彼が死んじまうことを切に願うぜ)という一言が見られ、母親への憎しみと共に父親への怒りもfuckなど非常に強い言葉を用いてあらわにしている。
彼が人種や家庭の貧困状況以上にコンプレックスに感じていたのは、本来なら愛すべき母親に関してである。(Eminemによれば)彼女はろくに仕事もせずドラック漬け、男癖が悪く、その男性関係のストレスや金銭的な不自由の不満を虐待などの形でEminemにぶつけていた。そこから彼の性的なコンプレックス(極度の性軽視、ゲイバッシングなど)は生まれている。さらに、I look at Hailie, and I couldn't picture leavin her side. Even if I hated Kim, I grit my teeth I'd try to make it work with her at least for Hailie's sake I maybe made some mistakes(ヘイリーを見つめていたら、彼女のそばを離れるなんて想像もできない。それがもしオレが彼女の母親であるキムを死ぬほど憎んでいたとしても、彼女との間のことがせめてましに運ぶようにオレは歯をくいしばるのさ、ヘイリーがオレがひどい間違いを犯していると思ってしまわないようにな) と、愛娘であるHalieに対しての大きな愛情を見せる一方で、Kim(Eminemの幼馴染であり妻・元妻)には大きな嫌悪感を示す。それは彼女が母親と同じく男癖が悪く、ドラッグなどに手を出すなどで、彼のコンプレックスの対象となっているからだ。そしてVerse2の終わりはI'd like to welcome y'all to "The Eminem Show"(この「エミネムSHOW」にみんなを歓迎する)となっている。実は、このThe Eminem Showというアルバムは、スターダムにのし上がった彼が、私生活とスター生活の狭間で感じる葛藤を暴露する、というコンセプトの元に作られた。エミネムSHOWに歓迎、とはつまりこのアルバムのコンセプト(核心)に迫る、という比喩と考えられる。
―Verse3―
ここでは、過去の話から現在に目を向け、現行する母親たちとの関係に触れられている。My whole life I was made to believe I was sick when I wasn't ’til I grew up, now I blew up, it makes you sick to ya stomach doesn't it? Wasn't it the reason you made that CD for me Ma? So you could try to justify the way you treated me Ma?(大きくなるまでの人生の全てを、オレは病気なんだと信じ込まされて生きてきた、そうじゃないのに。そして今オレは今その全てを吐き出している。気分が悪くなる原因はここにあるんだろ?だからあんなCDまで作ったんだろ?それであんたがオレにしてきたことを正当化しようとしてるんだろ?)ここでいわれるCDとは、実はEminemがあまりに母親のことを激しくまくし立てるため、実の母親がわが子を名誉棄損等で訴え、彼女自身わが子を罵る曲をしたためるというなんとも皮肉な関係が勃発したのだ(それに対してまたEminem自身が母親のことを曲に持ち出してくるという悲惨な循環がおこっている)。このあたりがいよいよ、この物語の核心、骸骨の本意の部分である。See what hurts me the most is you won't admit you was wrong. Bitch do your song - keep tellin yourself that you was a mom!(何が一番オレを傷つけるかって、あんたが自分の間違いを認めないことだ。このあばずれが、歌でも何でも歌いやがれ、自分自身に「私は母親だ」って言い聞かせてでもみじめに生きりゃいいさ!)とここで自分の傷をさらけ出す。You selfish bitch; I hope you fuckin burn in hell for this shit. Remember when Ronnie died and you said you wished it was me? Well guess what, I +AM+ dead - dead to you as can be!(この自己中のクソオンナ、オレはあんたがこのこと全てにおいて地獄でクソみたいに焼かれちまうことを願うぜ。覚えてるか?ロニーのおじさんが死んだときあんたは、死んだのがオレだったらよかったのに、ってこぼしたろ?聞けよ、オレはもう壊れて死んでるんだ、あんたが死んじまうのと同じようにな!) と、最後を締めくくっている。語気も非常に強く汚い。ここまでくると自分のことをさらけ出すことよりも感情が先走って口から出てしまっているという状態だ。そして、「死」(この曲のプロモーションビデオでは、彼自身が墓穴を掘っているシーンが実際最後にある)という不の感情の際極点にある言葉によって、彼の人生の全てを狂わした(と彼はとらえてる)母親への憎しみと怒りを表現した形となっている。
―Hook(曲のサビ部分)―
ここでは、今まで見てきた3つのVerseと比べて極端すぎるといっていいほど弱々しく幼さを思わせる言葉が使われている。I'm sorry momma! I never meant to hurt you! I never meant to make you cry; but tonight I'm cleanin out my closet.(ママ、ごめんよ!ママを傷つけようなんて思ってなかったんだよ!泣かせようなんて思ってなかったんだ!でも・・・だからこそ今日はクローゼットを片付けてしまうことにするよ。)語り口や言葉遣いから、これはEminemが子供のころに立ち戻って言っている台詞ではないかと考えられる。事実、彼が虐待を受け、母親に罵倒されるとき母親は「あんたまで私を馬鹿にするのか!あんたはなんて意地汚くて悪い子なんだ!」と叫び、その後泣き出すことがあったという。その状況を過去のEminemの目線から見ると、このように見えていたのではないだろうか。そして、母親に謝った後「おかたずけ」、つまりクローゼットの中のものを吐き出してしまうよ、と母親に告げているのである。
彼の曲の選ぶ言葉には確かに彼の感情や心の叫びが託され、人々の心に訴えかけるような衝撃を残す。そうしてメッセージの強い曲を書きつづける。あえて白人の彼のこの曲を選んだのは、黒人ラッパーのそれよりも「リアル」が忠実に描かれていると感じたからだ。事実、それが理解され、この曲は高い評価を受けている。
◇独特の語句・言い回し・韻
ざっとこの曲に目を通してみて、意味のわからない部分が多々あるはずである。それはこの作品中の言葉や、言い回しなどには、HIPHOPの文化の中で作り上げられ形を帯びた独特の言葉遣いなどがあるからだ。その根底には黒人社会・黒人文化の流れがあり、彼らがやはりこの文化の基盤を担い今でも大半を占める以上、言葉も彼らが普段から使っている「Spoken Words(話し言葉)」や「Slang(俗語)」が多い。
作品中の具体例を挙げれば、
*I’mma → I am going to(話している音をそのまま表記したもの)
*Ma? → Mother?(の略語、母親や女性への呼びかけのときに使ったりする)
*Dis → Disrespect(の略語)
などがある。彼ら自身、独特のアクセントと発音で話すので、音をそのまま表記するとI’mmaなどのように原型がわからなくなってしまったり、explodin(=exploding)のように、表記の上からも音が消滅してしまったりする。
言い回しなども独特で、彼らは日本の教科書で習う「Hello, how are you?」といった言い方はまずしない。一般的に広く知られているのは「what’s up?(wussup?/wut up?)」という一言である。直訳すると「何が上にある?」という風になるが、「何が話題としてあがっている?」という風な意味になる(ほかにもwhat has happened? →what’s happened? →what’s appen? →what’s app? →what’s up?と変化したという説もある)。
そのほかにもあぁなるほど、と思わずうなずいてしまうものもある。
Dead Presidents→お金、お札(直訳では死んだ大統領だが、お金にはこれら歴代の大
統領が印刷されているため)
187→殺人を犯す(アメリカの刑法で殺人罪の記載が187条のため)
そして、RAPの技術の良し悪しを決める大きな判断材料になるのが「Ryhme(韻)」である。
Mouthとout、goodbyeとwould die、closetとknows itとclose it、のように音節が似ている言葉や文節を重ねていくというものであるが、文学・文法的に見ると「正しい韻」にはならない場合も多い。それよりは、音が似ているかどうかが重要視される。この技術を踏まえて、曲自体に濃厚なストーリーとメッセージを織り込んでいくことは、頭の回転と言葉を操る高い技術が必要である。だからこそ、多くのラッパーたちは日々技を磨き、ほかよりもすごい技巧を獲得すべく精進するのである。
黒人の文化をそのまま流入させた為、語気の強い言葉の多用やスラングのせいでHIPHOPに全く興味がない白人や、本から英語を学んだ私たち日本人のような人々には、全く別の言語にさえ聞こえるかもしれない。しかし、この「言葉」もHIPHOPのひとつの大きな魅力といえる。なぜなら、この言葉によって彼らは「リアル」を伝え、文化を広め、考えを波及させていったからである。逆に言えば、言葉に魅力を託して伝えることが出来なければ、HIPHOPの波はここまで大きいものにならなかっただろう。
ちなみに、Eminemの生まれ育った街は黒人の割合が多く、彼も黒人のように話す。それによって、お前は白人なのにオレたちの言葉をしゃべる、オレたちからHIPHOPミュージックを奪おうとしている、とののしられることもあったらしい。
4・・・What HIPHOP Is Telling Us?
◇世界の動きとHIPHOPの本質
Eminemも然りであるが、HIPHOPが1970年代の誕生以来始まった背景には、世界規模の人種解放運動や、戦後の人権に対する理解、また一方でそれに反対する保守的な考え方や運動との闘争が関係している。有名なところで言えば、K.K.K.(Ku Kulux Kulan)などは白人優位主義、黒人差別運動の究極形である。当時はジャマイカや南方からの移民が多く、奴隷としてつれてこられたアフリカンの家系などは今現在でもアメリカに多数いる。加えて先住民への差別なども表面化し始めた当時、人々はこういった「人とは何か。人種とは何か。差別や格差とは何か。」という問題に直面し、思考することがとても多かった。アメリカを中心とした世界で、さまざまな事柄に対する「コンプレックス」が認識されていったのだ。起源をアメリカの低所得者層のパーティに持ついわば「大衆文化」つまりHIPHOPはその世界の大きな流れに乗り様々な人々に受け入れられ、彼らの「リアルな言葉」として伝わっていったと考えられる。現在でも、大物アーティストがアフリカを「マザーランド(自分たちが来たる土地)」と称する曲を歌ったり、人種差別や反戦をうたったりする曲を作ることは多い。Eminem自身も近年出した「Mosh」という曲でイラク戦争とブッシュ政権を痛烈に批判し、ブッシュ大統領本人に「彼はテロリスト以上のアメリカの脅威だ」と言わしめるに至っている。
こういった大々的な波紋を呼ぶのは当然、それこそHIPHOPの望むところなのだ。「リアルな意思」を伝えるのが、様々な背景や時代を通しても変わらないHIPHOPというものの本質なのだから。
◇21歳の自分
「Hiphop, the rap music is almost like a weapon or somethin, especially for da rap kid like me.
(HIPHOP,RAPという音楽はオレたちRAPキッズにとって武器のようなものなんだ) 」
Eminemは自身のヒット映画「8mile」のインタビューでこう答えている。
これはどういうことか。HIPHOPにはどの要素にも「Battle」というものが存在する。RAPの場合、音に乗せて制限時間内にどれだけ相手のことをうまく、しかも即興で罵り、会場を湧かすことができるかという「Freestyle」というものがある。日本では考えられないが、HIPHOP色の強い大きな街などでは、街中で当然のように行われていることだ。このバトルで、どれだけ自分の技を誇示し、見せつけ、居場所を確立するか。それを彼は「武器だ」と表現したのだ。自分の居場所を守るため、自分自身の存在を証明するため。
果たして、自分の場合はどうだったか。16歳でHIPHOPに出会い、海外でその音楽にどっぷりと浸り、そして21歳になった今も続けている。このHipHop,As Da Voiceを記すにあたって、そしてHIPHOPというものを通して学び考えたのは、「手を挙げなければそこにいないのと同じ、声を上げなければ考えていないのと同じ」ということだ。自分の存在に対して、自分はここにいると声を張り上げ、新しいものを創り続けていく。「武器」とまでは行かないが、自分の存在と意思を伝える「Voice(=声)」として、いろいろなもの、いろいろな人とつながっていく、伝えていく。私は、HIPHOPとはそういうものだと理解している。偶然借りたCDを聞いたときの衝撃から始まり、ただうわべだけのかっこよさを求めるだけでなく、いつの間にか私の中で「リアル」になっていたHIPHOPそれ自体を通して、今でも頭に残っているその衝撃をほかの人にも伝えていければと願う。
Read Da Hip-Hop 参考文献
【書籍・雑誌資料】
*LIFE STORY eminem ― アメリカで購入した雑誌 出版等不明
*HIPHOP NAVI vol.1 ― シンコーミュージック・2006/4/16
*The Vibe History Of Hiphop ― シンコーミュージック・2002/2
*ゲットーを提造する
−ロビン・D.G.ケリー/著 村田勝幸/訳 阿部小涼/訳ロビン・D.G.ケリー・彩流社・2007
*黒人差別とアメリカ公民権運動 − ジェームス M バーダマン・集英社新書0392・2007年
*レイシズム − 小森陽一・岩波書店・2006
【映像資料】
*「8mille」― ユニバーサル・2002
*「Scratch」 − ニューズベース・2001
【Web資料】
*Web NewYork Times−http://nytimes.com/
*ウィキペディア − HYPERLINK "http://ja.wikipedia.org/" http://ja.wikipedia.org/
*EminemWorld ― http://eminemworld.com/
*Yahoo(辞書、画像) ― http://yahoo.co.jp/
なぜHip-Hopはサウスブロンクスで誕生したのか
Abstract
Through this paper, I want to discuss how and why Hip-Hop culture gave a birth to itself in South Bronx, New York. I tried to contain historical materials as evidences from the time of The American Civil War to recent time as much as possible so that we can eventually face it not only as music matter, but as the social matter in United States.
Hip-Hop culture is still very young comparing to many different types of music. So what I also want to do through this paper is to compare each Jazz and Hip-Hop history because these two have very similar points in its history. So we can attempt to attach the reason why new type of music happens.
Plus, I would like to talk about my experience of visiting South Bronx. I have seen many things out there, and felt the atmosphere that people have been holding so long time since they were born with Hip-Hop culture.
KeyWords : Hip-Hop, New York, South Bronx, The Civil War(南北戦争), Black Music(黒人音楽), ジャズ(ブルース)、黒人霊歌
*HIPHOPというものを研究対象に据えた先行研究は、この文化自体がまだ若いものであることから依然多くなく、論者によって時期や表現などの解釈や方法などに多少のズレがある。本稿は参考文献等の資料をもとに論述内容を極力しぼりこんだものであり、これがHIPHOPという文化を総括して論じているという訳ではないことをご理解いただきたい。
◇イントロダクション◇
HIP-HOPは「リアル」を伝える声
こんなひどい暮らし、気でも狂ってなきゃ、やってられないさ
オレのほかには、オレの面倒見てくれる奴が、誰もいないんだからさ
この一節は、1992年の4月頃にロサンゼルスで発生した暴動が鎮静化にむかいつつあった際、ABCのテレビインタビューに対して、黒人の若者がハードビートのラップで答えた文言である。ロス暴動は、ロサンゼルスにすでに内在していた、白人、黒人、アジア系、そしてヒスパニック系の人種間の緊張の高まりが原因であるとみられ、まさに、限界にきた黒人社会の不満と怒りが爆発し発生した事件である。
ロス暴動の内情についてはさておき、ここで私が注目したいのは、テレビカメラに対して自分自身の「リアル」な現状を伝えたこのラップである。これはこの黒人の若者が即興で行ったもののようだが、短い言葉の中には、現代社会への喪失感、失望感、不満、怒り、そして孤立した自分の立場が切実に表現されている。この暴動がいよいよ鎮静化をみようというとき、アメリカのラップ専門のラジオ局は次のようなメッセージを含んだ、過激な曲を流したという。
オレたちが街を歩くと、白人たちが、急ぎ足で逃げていく
だがオレたちは、400年もの間、オレたちを殴り、強姦し、
強奪した、おまえたち白人の創造物さ。
よくみるがいい
これにも、先ほどの黒人の若者と同じように、彼らが受けてきた社会的、人種的な痛みがたっぷりの皮肉な表現を用いて歌われている。
「Hip-Hop」が、ニューヨークはサウスブロンクスで誕生して四半世紀がたつ今でも、この文化は、ヒップホップカルチャーの中で生きている人々の「リアル」を伝える声として存在しつづけている。
しかし、ここである疑問にたどり着く。なぜ、そしてどうしてこの”Hip-Hop”というものは、広大なアメリカの中のサウスブロンクスという小さな地域でその産声を上げたのか、ということだ。なぜ、ヒップホップという「カタチ」に、人々はたどり着いたのか。この疑問について以下に、歴史的、音楽性、さらには自分自身のサウスブロンクスへ赴いた経験も踏まえ、述べていきたい。
なお、以下に論ずる「Hip-Hop(ヒップホップ)」という言葉の定義についてであるが、ヒップホップは通常、大きくわけて「DJ(ディスクジョッキー)」「MC(ラッパー)」「B−BOY (ダンサー) 」「Graffiti(グラフィックアーティスト)」の4大要素からなるものであるが、本稿で用いるヒップホップという言葉の定義は、最初の2要素である「DJ(ディスクジョッキー)」「MC(ラッパー)」に特に重きをおいているものである。誤解のないように、先に断っておくこととする。
◇黒人音楽の歴史的背景◇
南北戦争と奴隷解放宣言
ヒップホップの歴史を辿っていく上で、さけて通れない最大の問題が「人種差別」の問題である。しかしながら、人種差別の問題自体は起源自体かなり昔までさかのぼって考察していかなければならないうえに、その全貌はここで論じきれないほど多岐にわたり、本稿の趣旨とはずれてきてしまう。しかしながら奴隷制度や人種差別問題を知ることで、黒人音楽に対しての感情的な面での理解が開けると私は考える。したがってここでは、ヒップホップの源流とも言える諸音楽が実際に色濃く人種差別問題に結びついてきたきらいがあるアメリカの南北戦争の時代あたりに、背景としてまず目をやっておきたい。
南北戦争は1861年から1865年にかけて、奴隷制存続を主張するアメリカ南部11州と、北部23州の間におこった自国内戦争である。レゲエミュージックの伝説的存在であるボブマーリーの歌にある「バッファローソルジャー」はこの南北戦争時にアフリカからつれてこられたアフリカン-アメリカンで編成された部隊であり、黒人のみの部隊として白人の指揮官のもと南北戦争を戦った。奴隷制度自体はこの戦争が始まる前から、アメリカにおいて広まっていたことは周知の事実であるが、とにかく黒人はその昔奴隷としてアメリカにつれてこられ、白人社会の論理により、社会的・人道的なおおよそすべてを支配されていた。フレデリック・ダグラスという人物は自身の奴隷制度に関しての本の中で奴隷のおかれていた状況を次のように表現している。
たとえどんなに不公平であっても、奴隷は一言も口答えをしてはならなかった。
主人が喋るとき、奴隷は立ち上がり、耳を傾け、震えていなければならなかった。
奴隷制度によって、アメリカという地で、黒人たちはすべてを破壊されつづけ、文字通り地獄のような時間を過ごしたであろう。しかしながら、いくら制度や論理で縛り付け、残酷な扱いをうけようが、彼らの精神的なエネルギーまで白人たちは完全に縛り付けることはできなかったようだ。リンカーンなども大きく提唱した奴隷制度撤廃論や自分たち自身の地道な活動を通して、黒人独自の文化やアイデンティティを維持するエネルギーはかろうじて、しかしながら決して絶えることはなかった。彼らのアフリカから持ち込んだ独自の文化形体を物語や歌としてつたえ、また、アメリカで取り入れた宗教観や文化などとそれらを融合させることで、「アフリカン-アメリカン」としてのアイデンティティを築き上げていった。主人たちの支配の外に徐々にコミュニティを形成し、時に主人たちの文化の中に取り入るかたちで、彼らの独自文化は「アフリカン-アメリカン」として存続を続けた。実際に、南北戦争後は、奴隷解放宣言が実現したのだった。
南北戦争後の大きな壁
南北戦争ご奴隷解放を現実のものにしたアフリカン-アメリカンたちであったと前項の最後で述べたが、実際の社会ではその後も大きな壁が待ち受けていた。
「解放」を得たものの、「自由」に慣れていない(というよりおおよそはじめての)黒人たちに対する白人からの、特に南部では蔑視の念はそう簡単には褪せなかった。「黒人と白人は全く別の生き物である」という思考回路は無くならず、読み書きができないことや計算が苦手なことにつけ込まれ、給料をごまかされたり、無知につけ込まれ事実上の奴隷のようにこき使うなど、制度的な解放を得ただけで「人種差別そのもの」の内容は以前にも増して陰湿で酷なものになってしまったのだ。
この状況は皮肉にも白人たちの利己主義によって、少しの改善を見る。「労働力」として黒人を見ると、その質はかなり低く、自由経済制を敷くアメリカにとっては、経済的な発展のために黒人労働者を教育しもう少し質の高い労働力を獲得する必要が出てきたからだ。結果としては黒人の向上をよく思わない白人からさらにひどい差別を受け、「平等だが、別々の生き物だ」という考え方は定着し、警察や裁判所までがこれを認めてしまう自体になる。教育上の差別も続くかたちとなり、教科書には奴隷はいかにのろまで愚鈍な生物であるか、というような表現が踊っていた。
黒人霊歌の力
19世紀になりようやく教会を主体として黒人たちに教育を施す機関をたてる動きが活発した。差別によって正規の教育が受けられないなどした黒人たちの教育機関的役割、またはそれを推し進めていく主導的役割も教会は担っていたようだ。また、「I have a dream(私には夢がある)」という演説を行ったことで知られるキング牧師に代表されるような教会の主催者は黒人コミュニティの中では大きな存在意義をもち、指導者的な役割もはたしていた。
このころ、人種問題においても、黒人の人々にとって教会の存在は大変大きいものがある。彼らは、黒人霊歌と位置づけられる歌を、奴隷制度からつづく人種差別に対する感情、奴隷制度に生きる自分たちの苦悩や心情とともに歌い、集会に集うことによってみんなで意思共有し、気持ちを同じ方向に向けようとしていた。
現代のヒップホップには「コールアンドレスポンス」という、MCが観客に対して一定の言葉を投げかけ観客はそれに対してまた一定の返答を返すという掛け合いが見られるが、これの原型はこの黒人霊歌を教会で歌っていた人たちに見られる。また、韻を踏んだ歌詞や、アドリブ的要素を盛り込んで自由に自分の感情を表現するなど、ヒップホップだけにとどまらずジャズやアフリカからの音楽に似ているような面も多々ある。アフリカン-アメリカンの人々は複雑な言葉を駆使できなくとも、音楽的な感性を通して意志を統一し、自分たちのアイデンティティを築き上げていこうとしていた。逆に言えば、ジャマイカの内乱をボブ・マーリーがとめ、独立に一役買ったレゲエ音楽のように、彼ら自身の「声」を具体化していくのに教会でみんなで奏でる音楽は大きな役割を果たしていた。
さらにここでは彼らにとって画期的な思考が働いていた。それは、常に「奴隷」という形式にあてはめられ、常に他から「黒人とはなんたるや」を定義されていた彼ら自身が、歌やコミュニティでの行動によって「自分たちは何者か」ということを考え始めていたことだ。自分たちは何者で、どう在るべきなのかは、自分たち自身が決定する、という独立的で力強い思考である。マンハッタン島のハーレム地区に本人の名前がついた通りが残っている、黒人指導者であったマルコムXは力強くこう述べている。
私はこのアメリカのシステムの犠牲者として語っている。私はアメリカンドリーム
など全く見ることはない。私が目にするのはアメリカンナイトメアである。この
2200万人の犠牲者たちは目覚めつつある。彼らの目は開こうとしている。
彼らは見ているだけであったものに対して考え始めているのである。
白人社会で蔑まれながらも、その目の届かない枠の外で、自分たちの血に則した方法、すなわち音楽などで自分たち自身の文化を継承していったのである。
しかしながら、ここでは白人社会への明らかな抵抗はまだ見られない。つまりこの時点ではまだ彼らの声は「ヒップホップ」のそれとは隔絶している。ジャズ(ブルース)やソウルなどは後に白人のアーティストも出てくるほどに、白人社会に受け入れられ、受け入れられるほどに黒人の「居場所」を作っていった。ただ、音楽に対して白人と黒人の間で決定的に違ったのは、白人の黒人音楽を許容する目はただの「娯楽」、もしくは楽曲としての美しさの理解程度にすぎなかったのに対し、黒人のそれは、繰り返される差別の矛盾の中で、白人社会の原則や論理にはさからわず、彼らの定めた枠の外、もしくは彼らに許容される程度の行動の中で自分たちのアイデンティティを保持し、「アフリカン-アメリカン」としての火を失わないようにする数少ない「手段」の一つだったのだ。
ヒップホップの歴史をさかのぼることで見えてくる人種に関する諸問題は、現行の社会でも引き続いているものが多い。南北戦争後の黒人差別の最たる例であるK.K.K.の名残のようなものはアメリカ全土にまだ点在するし、「平等だが、別物」という考えは無意識の間に子供の脳裏に刷り込まれている。このことを頭の隅に留めておいてほしい。
この項の結びとして、黒人霊歌の歌詞をここに紹介しておきたいと思う。個人的には、音楽の中に神聖な神を見いだす、美しくもシンプルで、彼らの音楽的感性の高さがうかがえるものであると思う。
Just above my head, I hear music in the air
Just above my head, I hear music in the air
Just above my head, I hear music in the air
There must be a God somewhere
黒人霊歌
◇ニューヨークはサウスブロンクスでHIP-HOPは誕生する◇
ニューヨークという街の特殊性
私のニューヨークにすんでいる友人が以前私にこういった。
New York is on different planet. It is whole different world.
(ニューヨークは、まるで別の惑星にきてしまったみたいなところだよ。全然別の世界さ。)
実際にこれについては、口で説明するより行ってみて見るとより鮮明にこの言葉を理解
できる。本当に多種多様な人々がおり、42ストリートからタイムズスクウェアあたりは、映画の中に迷い込んだかのようにビカビカと街(のネオン)が輝いている。ビッグアップル、という相性で知られているニューヨークであるが、アップル、という言葉を使うのが可愛らし過ぎるほど、ギラギラとした空気が漂っている。他と比べて全く異質、いろんなものがひしめき合って初めて成立しているような感じだ。
狭い地域にチャイナタウンやリトルイタリー、ユダヤ人居住区、超高級住宅街、商業ビル街、娯楽区、はたまたゲットー(スラム、貧困街)がひしめき合っている。現市長に変わってからは、様々な政策がとられ、治安も安定し清潔な環境になってきた。
ニューヨークという土地は、昔は「アメリカの玄関」としてしられており、ステイトアイランドと自由の女神のすぐ近くにあるエリス島には移民入国管理局がおかれていた。アメリカ、ニューヨークに移民してくる人々は必ず自由の女神を横目に、ここを通って入国することになっていた。何を隠そう自由の女神もフランスからのいわば「移民」である。
南北戦争、公民権運動などの時期を経て、南部に多かった黒人は北部にも多く移住してきた。その大きな要因は「雇用」で、南北戦争後経済が疲弊した南部では労働条件がかなり悪くなってきた。北部の白人たちは抵抗したものの、彼らは徐々に北部へと移り住んでいったのである。移民が多く、多岐にわたる文化が押し込められ、働き口もとても多いと考えられていたニューヨークも黒人たちの移住先の対象になった。ハーレムがもっとも有名な黒人の居住地であろうが、現在では家賃が月に15万円を超えるほど、経済の波が押し寄せる状態におかれている。1970年代初期から80年に掛けて黒人たちが移り住んできたときも、経済の発展にあわせて、黒人の人々は住むところをシフトしていった。やがてゲットーが形成され始め、ブロンクスも黒人や低所得者が移り住むようになり、おおよそ現在のマンハッタンの構図となる。他国の都市にさえも類を見ないような特殊都市が完成したのである。
かねてから移民や前述の黒人たちのような移住者が多く多様な文化が衝突しながらも混在するニューヨーク、”全然別の世界”であり、今日のアメリカの縮図のような場所である。そのため、特に特徴的な都市文化が形成され、本稿を書くにあたって読んだ「New York」という本の第四章のタイトルにも挙げられているように、画家と詩人の街・ニューヨークとして、中でも芸術に関する理解や許容に関しては窓口はとても広かった。現在でもジャズクラブとレストランが一体となったような店は数多くあり、ストリートパフォーマーやストリートアートへの理解も深い。新しいものを拒まず、自らに取り込んで発展してきた町なのだ。実際、黒人音楽の新たなスタイルとしてヒップホップのようなものが登場してきても、それを受け止められるだけの基盤がこの街には当時すでにあったのだと考えられる。
ジャズとヒップホップの成り立ちの酷似
ヒップホップはニューヨークのサウスブロンクスという地域を発祥地とし、前項ので述べたように、様々な人種と文化が混在する地域の影響を多大に受けていると考えられる。誕生に際し、クール・ハークというジャマイカからの移民DJが、ニューヨークでファンク・フリージャズ、ブルースやソウルの音楽とジャマイカから持ち込んだレゲエ的、アフリカン的音源を融合させたところから始まった。彼はいわゆるゲットーのあるサウスブロンクスに住み、唯一の娯楽と言えば、低所得者層用の公営住宅である「プロジェクト」の広場でのブロックパーティ(酒や音楽を持ち込み皆で行うあつまりのようなもの)であった。彼はここでDJとして活動していた。これが大体のヒップホップの成り立ちである。
実は、ジャズの発生、成り立ちや性格は、ヒップホップのそれに酷似している。ヒップホップ自体がジャズの要素を諸処に取り込んでいることも否めないが、それは精神的なものにまで及び、自分たちの声を歌にする、という精神はヒップホップの根底に流れるものと同じものだと指摘したい。
石田依子氏は、自身のジャズに関する論文のタイトルに
「抵抗」と「解放」の音楽
という言葉を用いている。この表現は、ジャズの本質を理解する前提として頭に入れておく必要があるだろう。リロイ・ジョーンズという人物が言及しているように、ジャズ自体は19世紀末にニューオリンズでブルースから生まれた後、独自の道を歩んできたと言える。石田氏の論文中の表現を用いるなら、ジャズは「破壊された生活に直面しながらも、それを耐え抜く意志が表現されている」音楽であるといえるだろう。
大まかにジャズの起こりを定義すると「黒人音楽とヨーロッパ音楽が出会い発生した」といえるようだが、この二つを結びつける背景には「クレオール」と呼ばれる、ヨーロッパ系白人と黒人の混血である人々が大きく関わっている。クレオールは、ニューオリンズという土地自体が白人と黒人の混在地点であり、白人の血を持っていることから、先に述べた南北戦争までは、白人と同等の権利を有し、ヨーロッパの音楽(や一般教養)を学ぶことができた。しかし、南北戦争が終わり、奴隷解放が成されると、黒人の血ももっているクレオールは以前とは逆に黒人としての扱いを受けるようになってしまったのだ。
黒人階級に没したクレオールは、白人たちに日曜日の午後にだけ許された広場の黒人たちのダンスに参加するようになる。ここで、西洋音楽と黒人音楽の出会いが生じることとなる。この近辺の地域でもあらたな黒人音楽は誕生しつつあったが、ニューオリンズという土地の性質上、彼らの音楽の独自性はより顕著なものだったのだ。それから時を経て新しい風を取り込んだ「ジャズ」は細分化し、今日にも残る発展を遂げることとなる。
ところで、ジャズには「アドリブ」という要素が欠かせない。これはアフリカの音楽性と通ずるところもあり、これから逸脱して形式張るとジャズに聞こえないという性質がある。ビバップ革命やファンキージャズなどの発展を経てたどり着いたフリージャズというジャンルでは、それはより明確なものだ。それは、再び石田氏の言葉を借りるなら、「”アフリカ性”を取り戻すことに立脚したスタイル」と言うことができる。自分たちの血に宿る魂を復活させよう、という自分たち自身の「声」を歌い上げることが、黒人である彼らのジャズの基本的なスタンスなのだ。
ここで少し立ち止まって比べてみよう。アドリブが多いジャズとヒップホップのラップに存在する「フリースタイル(即興のラップ)」にはアフリカ系譜の音楽の特徴が見られるし、自分たちの「声」を曲にしたためて確たるメッセージを伝えようとする点でも音楽性に共通するところがある。加えて、ニューオリンズとニューヨークの混在した文化の面、限定的な娯楽が音楽であった事実、新しい発想と音楽性の出会い、そしてそれを引き合わせた人物の多文化性、そして、それぞれの音楽が持つメッセージ性など、諸処の成り立ち方がジャズとヒップホップではそっくりだということに気がつくことができる。つまりヒップホップが生まれる際の環境的なもろもろの要因が、ジャズのときのように、新しい音楽のスタイルを生み出しやすい状態にあったのではないかと推測できるのだ。
ただ、ジャズとヒップホップが決定的に違ったのは、ジャズのように美しいメロディにのせて、白人に許容される範囲で比喩的に自分たちの声を表現するのではなく、もっと直接的に、白人社会に明らかに反旗を翻し、疑問と怒りをぶつけ、自分たちのアイデンティティを強引に「認めさせる」性質をもったことだった。石田氏がジャズを「抵抗と解放」と表現したことに対し、私はヒップホップを「反抗と自由」と表現できると思う。その根拠は、ロス暴動をおこし白人社会に”反抗”したのは、熱狂的なヒップホップ・リスナーであるという事実があり、自分たちが本当に言いたいことをほとんどそっくり自分たちが普段話している言葉で、何の束縛もなく表現できる”自由”をヒップホップの中に得たところにある。
南北戦争前からの長い歴史のなかで、最初は従うだけになっていた黒人は、独自の文化を活力ある自らの方法で広め、ジャズや教会音楽などの「声」を次第に獲得し、アイデンティティをめぐる”大きな流れ”は、ニューヨークのサウスブロンクスに次第に集約していったように思える。これが、マンハッタンのど真ん中ではおこらなかったであろうし、ニューオリンズやその他の地域ではこの”大きな流れ”は集約しきらなかったのではないかと私は考える。歴史的な流れと特殊な環境の作用が新しい音楽を生み出す「核」になったのではないだろうか。
◇なぜサウスブロンクスで誕生したのか◇
自分の目に映ったサウスブロンクス
これまでたくさんの事柄に触れてきたが、実際は決定的にヒップホップの誕生をサウスブロンクスに根拠づけるまでは至っていない。実際に、サウスブロンクスとはどういったところで、どういう状態でヒップホップが存在しているかを知らなければ、前述した長い長い文章は一つどころに集まっては来ない。そこで、私は昨年2007年の9月に実際にサウスブロンクスを訪れてみた。
サウスブロンクスではマンハッタンから地下鉄で行くことができる。乗り換えもないので乗っていれば自然にブロンクスに入っていくのだ。
地下鉄に乗っていた間気づいたことが3つある。1つは、途中から車両が地上に出るのだが、町並みがどんどん変わっていくこと。マンハッタンの喧噪の雰囲気から徐々に住宅街や公園、学校などの下町的な風景になっていく。サウスブロンクスを越えるか越えないか位の、ブロンクスのど真ん中までくると、殺伐として危険な雰囲気は町並みからも漂ってくる。
2つ目に気づいたことは、地下鉄に乗り到着を待つ間、1駅ごとに白人とアジア系の乗客の割合が減っていき、逆に黒人の割合が高くなっていくこと。やはり、差別感は今でも色濃く残っている上、所得格差も大きな原因となり、黒人はブロンクス地区、お金のある白人や黄色人種はマンハッタン島内部、という住み分けがなされている。
そして3つ目に気づいたことは、すべての黒人が自分をジロジロと見ていることだ。先に述べた通り、ブロンクス住民のほとんどは黒人である。まして若い黄色人種の男が独り彼らの地区を訪れるというのは珍しい。とても怖い、というか「よそもの」として見られている感が常にあった。
駅を降りて、しばらく街を歩いてみると、やっぱり通り過ぎる人は私のことをジロジロジトジトとした目線で見てくるし、水を買ったスーパーの店員は、あからさまに嫌な顔を見せていた。そう、この地域では非黒人に対する「逆差別」のような現象が起こっているのだ。それは言葉を交わさなくとも肌で感じ取ることができる類いのものであった。
ちなみにヒスパニック系の人々に対しては、白人や黄色人種と比べてずいぶん友好的に過ごしているようだった。それはヒスパニックの人々はアメリカで現在「roach(ゴキブリ)」という俗称をかぶせられ、場合によっては黒人よりもひどい差別を受けているからなのかもしれない。
街の様子は、地下鉄から見た通り殺伐としてどこか物悲しく、それでいて緊張感のようなものが漂っていた。建物なども、やはりマンハッタンと比べてずいぶん汚く、簡素で、長い間使い回されてきた、というような印象を受けた。至る所にグラフィティーアートが施され、通りには全体的に人通りが少なかったように思う。
人々は、依然私のことを見てきた。若い黒人の青年たちは大きくダボついた服を着込み、車の前でヒップホップのラジオチャンネルを聞いていた。彼らが大きい服を着だしたのは、貧困の性で親が服を頻繁に買い与えてやれない為、大きくなっても着続けられるようにらしいが、彼らのファッションからは生まれたときからの環境である「ヒップホップ」がにじみ出ていた。小さい子供までがダボダボのTシャツに大きめのハーフパンツ、キャップを反対向けに被り、靴はバスケットシューズで決める、完全な「ヒップホップ」のスタイルだった。街全体が、数々のヒップホップアーティストが語る「リアル」な世界を再現したようだった。
唐突に理解した、HIP-HOP誕生の”理由”
サウスブロンクスを訪れる前に実は、本稿の冒頭から続く南北戦争時代から続く人種差別、奴隷制度、ニューヨークの街、そしてジャズやその他諸々の音楽について一通り学習してあった。その予備知識を踏まえて、実際にサウスブロンクスを歩いたことで、HIP-HOPの「サウスブロンクスでの誕生の理由」唐突に理解した気がした。
実際サウスブロンクスに対しての正直な感想として私が持ったのは「ここからどうやってあの力と怒りの原動力に満ちた音楽が生まれたのだろう」というものだった。先ほども述べた通り、街の雰囲気は乾き、殺伐として、人はいるのに全体的に暗く緊張感に満ちている。それに加えて約400年前から現代にも続いている人種差別問題、ヒップホップが誕生する以前から特殊都市ニューヨークにおいて繰り返される、民族間の衝突と、経済格差による生活不安、治安環境の劣悪さなど、おおよそ「希望」とか「夢」などという言葉が冗談にしか聞こえないような絶望感が、普段の生活から少し油断して気を緩めたすぐそこに潜んでいるのだ。先に私は、アイデンティティをめぐる大きな歴史の流れや環境がサウスブロンクスに集約したと言った。確かにそれもヒップホップを生み出す一つの大きな要因である。しかしそれでは、事態の半面しか考えられていなかったことになると私は考えた。事態のもう半面、このアメリカの歴史的・社会的なストレスの”しわ”が大きな流れにのって集約したところもまたこのサウスブロンクスなのだ。
では、このたくさんのものが集約し、重くのしかかるこの状況で人々はどうやって前を向き生きていくというのか。これに対しておそらく、彼らが至った結論とは、ロス暴動のときに黒人の若者が言ったように、自分の面倒は自分で見る、という考え方だったのではないだろうか。つまり、自分たちの生活や人生は自分たちの力で前向きに生きていく、自分たちの声は自分たちで声にする、という考え方にみんなが賛同した集大成として、また、すべてのフラストレーションと決別する覚悟の上で、ヒップホップという音楽がこの地で爆発したのである。これが私が現地の空気を吸うことで理解したHIP-HOPの「サウスブロンクスでの誕生の理由」である。
◇まとめ◇
ブロンクス出身のフィーメールラッパーとの"バトルを通して
私自身個人的にラッパーとして活動している関係もあって、ニューヨークに滞在している間は、積極的に音楽活動を試みていた。曲を書いていたのが大半だが、ある晩にステイトアイランド行きのフェリーで出会った黒人の女の子とは、ヒップホップの醍醐味の一つである「フリースタイル」でバトル(勝負)をした。ヒップホップカルチャーにおいては、サイファーという円を囲んで、そこでラップをし合うというものがあるが、それの延長線上のような状況だった。バトルと言っても、どちらがどれだけうまい即興のラップを繰り出せるかというもので、つい5分前に会った人と共通の音楽を通して楽しい時間をすごせたのは、本当に有意義だった。彼女は、私のアジア人のなまりの残る英語のフロウ(ラップの曲調)をほめてくれたし、彼女は見た目と同様、アフリカンな英語の発音で軽快なフロウを飛ばしていた。
ラップを一時楽しんだ後に、その女の子と、ラップとはなにか、ヒップホップとはどんなものか、ということについて話すことができた。その女の子は、ブロンクスのゲットーで生まれ、現在はステイトアイランドに住んでいるとのことだ。基本的に人見知りであがり症だったが、ラップによって言いたいことが口に出せるようになったという。彼女はヒプホップカルチャーについてとても柔軟で新時代的な考えを見せてくれた。本稿の最後に、彼女の言葉をのせておきたい。
I know we get discriminated because we are black, afro. It ain't never changed
for hundreds of years. But So what? We opened up our mind and understood
bit better each other, and we've done it through Hip-Hop music. It's amazing thing. Colour, country, not even bigga deal. Hip-Hop bring us all together. We tell the story through rapping. That is what Hip-Hop is about.
We are the new generation of Hip-Hop.
(確かに私たちはアフロ-ブラックで、差別されるわ。それはもう何百年も前から変わっ
た試しがない。でもだから何?私たちはちょっとでも心を開いてお互いをわかり合っ
たわよね?それを私たちはヒップホップを通してやったのよ。それはすごいことよ。色
や国なんて、大きな問題じゃない。ヒップホップはみんな一緒に集めちゃう。ラップを
通して自分たちのストーリーを伝えるの。それがヒップホップってものよ。
私たちは、ヒップホップの新しい世代なの。)
彼女らは、育っていく過程で自然にヒップホップの本質を理解しているのかもしれない。ブロンクス出身の彼女からこういった言葉を聞けたことはとても貴重で大切なことだと思う。新しい世代に自分たち自身の「声」をあげさせるために、ヒップホップはサウスブロンクスに誕生したのではないかと、この時私は考えたのであった。
なぜHip-Hopはサウスブロンクスで誕生したのか 参考文献
ー書籍ー
・アメリカン・カルチュラル・スタディーズ -文学・映画・音楽・メディア-(増補版)
ニール・キャンベル/アラスディア・キーン 著 2002年2月25日 萌書房
・ニューヨーク -周縁が織りなす都市文化-
金田由紀子・佐川和茂 編 2001年3月30日 三省堂
・アメリカ内乱 -白人の論理 追いつめられた黒人と日本人への警告-
日高義樹 著 1992年6月30日 光文社
・The Vibe History of Hip-Hop
アラン・ライト/編 2002年2月 シンコーミュージックエンターテイメント
・Hip-Hop Navi Vol.1(雑誌)
シンコーミュージックエンターテイメント 編・出版 2006年4月19日
・Lyrical Protest -Black Music's Struggle Against Discrimination-
Mary Ellison 著 1989年 Praeger Publishers
・Noise And Spirit -The Religious and Spiritual Sensibilities of Rap Music-
Anthony B. Pinn 編 2003年 New York University Press
ー論文資料ー
・「抵抗」と「解放」の音楽 ージャズの中の黒人抵抗史ー
石田依子 2004年9月10日
・カリブのフォークミュージック:アメリカポピュラーミュージックへの一つの道筋
勝部章人
・アフリカ系アメリカ人の宗教音楽とコミュニティ
権瞳
・エスニック・カルチャーの表象形体としての音楽:ニューヨークとヒスパニック
志柿禎子
・黒人音楽
前川金治
・ニューヨーク知識人と戦後アメリカ文化
堀邦維
ー映像資料ー
・Freestyle: The Art Of Rhyme ー ナウオンメディア 2004年
・Scratch ー ニューズベース 2003年7月25日
・Style Wars ー ナウオンメディア 1984年&2005年
ーウェブー
・http://www.yahoo.co.jp/
・http://www.google.co.jp/
・http://www.stylewars.com/index3.html
・http://ja.wikipedia.org/wiki/メインページ